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ただし、新古典派経済学のように、市場を神と見なすことはない。 交換券を発行する場合、原則として市場によって決められた価格にしたがうが、その場合でも、参加者はそれらの商品の原価(材料費、賃金一般的費用、保険費などの総額)についての正確な情報を提示することが義務づけられている。
交換銀行の運営の責任は「管理委員会」と名づけられた組織が引き受け、さらに「管理委員会」はつねに「監視委員会」によって点検を受ける義務をもっとされた。 ブルードンは、市場原理主義をエコノミスム」と呼んで批判した。
彼は正しく作成された経済データによって、「市場の誤り」が修正されるべきであると考えた。 彼は、交換銀行が市場に依拠しながらも、同時に人為的操作を加味した運営に委ねられるものと考えていたのである。
交換銀行は、市場で買い手が見つからない、余剰生産物を購入することで、農工業者を救済することを大きな目的としている。 銀行が余剰生産物を買いとる価格は、原価の八○%であると定款で定められていた。
商工業経営者や農民に長期の資本貸付や不動産を抵当とした貸付も行う。 貸付はいずれも交換券で行われ、その利子もきわめて低く設定されていた。

ブルードンは、ルイ・ナポレオンらとともに二月革命後の一八四八年六月には、国民議会補欠選挙で当選し、一八四八年の七月と八月の二回にわたって、国民議会にこの「交換銀行」計画の実現を訴えたが、否決されてしまった。 そこで、この計画を練り直し、翌年に「人民銀行」と名を改めて再出発を図った。
人民銀行では、交換銀行と異なって、加入者の制限が設けられた。 人民銀行は、協同組合的なものになり、株を発行し、それを所有した人が人民銀行のオーナーとなった。
交換銀行という名称を人民銀行に変えた理由は、この銀行が国家によって「上から」作り出されるものではなく、社会によって「自生的に」作られるものであるということを、名称の上でもいっそうはっきりさせたいと考えたからであった。 ブルードンは、人民銀行の設立場所を、労働者が主として住むフォーブール・サン・ドゥニ街に決め、その定款を公証人に提出し、「株主」と「加入者」を募集した。
二万七○○○人もの多数の加入者を集めたという。 加入者の家のドアの横に「加入者」であるという標識を出し、加入者は自分が手に入れた「流通券」(交換券の呼び名も変えた)を使って取引することができると考えた。
彼の新聞『人民の代表』も人気が高く、発行部数は平均四万部、一日平均ニ五○フランの利益を上げたという。

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